Defficの求める武術の究極はアートです。
アートとは基本と応用の遥か先にありながら、すぐ隣の世界線にいつでも在る、再現性のない魂の開放です。
それは肉体や精神を通じて顕現するもので、保存し伝えることがとても難しいもの。
多くの場合、基本の繰り返しと応用が完璧であっても、アートとしての表現にはなかなか至れないものです。
正確無比に完璧な音を紡ぐ音楽家は、果たして一部の狂いもない機械の奏でる音楽と何が異なるのか。それは人間業ではないだろうが、果たしてそれが人々を惹き付ける音楽であろうか?
正確無比なパースで、まるで高解像度の写真のような絵を描く画家がいたとして、それも人間業ではないだろうが、やはり人々を惹き付ける稀代の天才と言えるのか?
アートとは音の外れやパースの崩れさえも巻き込んで、二度と取り返しのつかない、再現などできない心を揺さぶる、正に「エモーショナル」な瞬間の輝きなのです。
ある日、意図しない音程の外れ、強弱の付け方の「誤り」が人々の心に得も言われぬ感情を想起させ、多いに湧いたからと、全く同じことをしても、その良さは損なわれてしまう。むしろ薄ら寒さすら与えるでしょう。
Defficの求める表現はクラッシクを「先人の通りに寸分違わず奏でること」ではない。また、お決まりのジャズをお決まりのスケールで、狙ったテンションノートで「作られたグルーヴ」に酔うことでもない。
その日、その時、その瞬間に、感じたままに、己を表現することであり、その瞬間に於いては「この構え、この角度、この流派」などという生真面目さは持ち込まない。(ただし、基本や応用がベースになければ、それはただの混沌であり、無秩序です。)
究極、表現をする人はその瞬間心を丸裸にする。
「あのひとを一言で表現するとどんな人?」と問われて、どのような色であるのか、どのような存在であったかすら言葉にしかねる。しかし「圧倒的にその人である」それこそがアーティストだと私は思う。