令和に入り、世の中は多様性を認める方向にシフトしていると思います。
昔からあった問題に多くの人が目を向け、少数派の人達が日陰を歩かなくてよくなってきている。
と考えると良い時代になってはきているなと思うのです。
(世界情勢や景気の話が別として)
昭和に人生のピークが来ているタイプの人にとっては、パワハラ、セクハラという言葉はただの足枷にしか感じないのでしょうが、悪習は駆逐されるべきだと思います。
しかし、少数派であることの傘に入り、言いたい放題、やりたい放題は駄目ですね。
(競技の世界でも度々問題に)
指導者として生きてきて、多くの人をみてきましたが、悪意がなければ人それぞれの癖はなるべく肚に収めておきたいと思っています。どうしても生きるのが上手ではない人がいるのです。
処世術に長けていたらそれで良い、というのは違うと思います。
勿論、気を遣う側が遣わない側よりも疲れることが多いと思いますが、その気遣う裁量は一体誰が誰のためにしていて、目に見えない常識やマナーのボーダーラインはどこにあるのか、と考えたとき、明確に答えられるでしょうか。
多くの場合は「私はこうして習い、実行し、これが良いと思っている」範囲を出ないのではないでしょうか。
他者に不快な思いをさせないように気を遣うのは素敵なことですが、
その行いを正義として誰かを叩いてしまったら、せっかくの素敵な気遣いが勿体ない形になってしまうと思います。
自らにできる方法で、より良い人との関係性を築くこと。
これを誰もが尊ぶことが当たり前な社会になったら良いなと思っています。
武術もそうですが、ツールと目的を間違えてはいけないですね。