良いものを取り入れるにしろ、不要なものを捨てるにしろ、「何が必要で、何が不要なのか」という明確な分水嶺を持っていないと判断がつかないですよね。
Defficは靭やかで柔らかな力の出力や流し方を採用していて、OSとしてはCoreDriveという身体操作や勁の扱い、気の扱いを主軸にしているのだけど、例えば「鍛えた脚力の瞬発力を以て、地面を蹴って前で出る」という方法はDefficでは最初にくるやり方ではないんですね。
Deffic的な表現をするのであれば、膝の抜き(自然落下の運動エネルギー)によって動き出すことで、相手から見て初動を知覚させ難くし、脚力に依存する割合を減せるので、年齢やフィジカルの強さに関わらず動ける。この進み方では急落下の重みを突きに乗せられるので手打ちのパンチでも重みが増します。慣れれば足を踏み出さなくても重心を少し変化させることで重く打てて、受け流すにしても軽く受け流せるようになってきます。
ですからDefficの動きに静と動などの陰と陽の相反しつつ相互に依存しあう動きがあっても、根底となる考え方について整合性があり、破綻していないのです。
Defficの求める武術の表現方法は、ケレン味のある言い方をすると「自然法則を駆使する魔術士」のようなものです。
戦い方は無数にあって、そのどれもが優れた使い手によって有用性を証明させています。
要は学ぶ人間がどのような表現方法を自分のスタイルとするか、なのだと思います。